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総合研究所

shinjiro7=ネット巡回型・問題点指摘ロボット。武蔵大学・千田有紀教授の論文不正(捏造)問題追及。著作権は当方に帰属しています。 すべてのページの無断転載を禁じます。(連絡先) ivishfk31@gmail.com

千田有紀著『日本型近代家族』を読む2 「家族国家観」「近代家族」

社会学 論文不正 『日本型近代家族』 千田有紀 日本型近代家族

「家族国家観」「近代家族」について考えてみましょう。武蔵大学千田有紀教授は『日本型近代家族』(勁草書房、2011年)の中で次のように書いています:

 

 日本の特殊性であると長い間考えられてきた家族国家観ー「国民は天皇の赤子である」などという、第二次世界大戦に日本を導いた「非合理的」で「ファナティック」な思想ーは、「近代家族」という視点からみれば、けっして日本に特殊なものではない。むしろ家族国家観は、きわめて「近代的」な事象なのである。
 例えばフランス革命では、父である王による支配である王制を倒し、国民は兄弟たちによる友愛であると表象された(Hunt 1992=999)。ここでは家父長制が否定すべき敵として表象されている。これは家族の縦の関係を否定し、横の関係を強調するタイプの家族主義である。(注1)【引用終わり】

 

千田氏が、家族国家観はきわめて「近代的」な事象なのである、と言う場合の「家族国家観」からは、たとえば次のような、家族国家観の持つ特殊な歴史的意味が捨象されてしまっています:

 

「明治二十年代に確立された天皇制家族国家体制は、ファミリイを末端組織としてピラミッド型にあらゆる社会関係を規制し、そのヒエラルヒーの頂点に家族国家の家長である天皇をおくものであった。家族国家は絶対的価値を掌握し、他の独立する精神領域と秩序を許さない。かかる社会に生きるためには、とうぜんある種の鋳型にはまらねばならない。その鋳型とは、もちろん天皇制家族国家に適合する人間像である」(注2)

 

このような家族国家観の持つ特殊な歴史的意味を捨象した上で、千田氏は、フランス革命後のフランスにも「家族国家観」は存在したのである、と言い、家族国家観は、きわめて「近代的」な事象なのである、と言っているわけです。つまり千田氏の言う「家族国家観」は「家族国家観」概念が本来有していた上記のような特殊な歴史的意味を捨象した残滓(=残りカス)の概念なのです。千田氏は、この残滓の概念としての「家族国家観」概念が欧米の近代にも存在する、と言い、そしてこの残滓の概念としての「家族国家観」概念を含む概念として「近代家族」概念を考える、というのです。この考え方によると日本にも欧米にも「家族国家観」が存在したと言うことができます。すると欧米の「近代」にも日本の「家族国家観」が存在したと言えるから、日本には不在であるとされていた「近代家族」が日本にも存在する、と言うことができます(注3)ので、社会学者としてはこの「近代家族」概念は使い勝手(操作性)がよくなるわけです。したがって千田氏は「近代家族」は、研究者によって操作的に作り上げられた分析概念である、と書いています(70頁)。

しかし考えてみれば千田氏は「家族国家観」の本来持っていた上記の特殊な歴史的意味を社会学者にとって操作性のよい「近代家族」概念作りのために捨象してしまっているわけですから、歴史修正主義と言ってもよいでしょう。千田氏の考え方ではいったいなんのために第二次大戦後多くの学者が戦争を反省し民主化の条件を必死で探ったのか、その努力や趣旨を没却してしまいます。

千田氏はフランスの例以外にも、アメリカは、大統領が「国民の父」を自称し、ファースト・レディである夫人と理想の家族を演出していた、そして特にそれが戦争時に顕著であった、との理由で日本の「家族国家観」が特殊なものではなくアメリカにも存在していた、との趣旨を書いています(注4)。無茶苦茶な論理です。

 

安倍総理戦後レジームからの脱却」を主張しています。私は戦後レジームからの脱却」を主張しているのは、安倍総理だけかと思っていましたが、千田氏の主張、つまり、川島武宜をはじめ多くの学者が戦後、戦争を反省して民主化を真剣に考えたのがかえって「家」概念を析出してしまい良くなかったとか(注5)、日本の家族国家観は欧米の近代にも見られる現象で、日本だけが特殊じゃない、という主張も社会科学界の「戦後レジームからの脱却」を目指した主張であると思います。しかし千田氏が戦後、戦争への反省の中から生まれた「家族国家観」という概念から、上記の川本の説明のような「家族国家観」の持つ国家による人権侵害的側面を除去し、全く別の意味の概念として「家族国家観」を作り変えてしまう点は歴史修正主義であり、問題です。また川本的な意味での本来の「家族国家観」を全く骨抜きにして、千田氏のように日本にも欧米にも「家族国家観」は存在した、家族国家観はきわめて近代的な事象である、ということを主張してしまうと、日本を再び軍国主義の時代に戻したい為政者(が仮にいたとしてその為政者)から「千田教授によると、日本にも欧米にも家族国家観は存在していて、家族国家観は日本だけの特殊な事象ではなく欧米にも存在する近代的事象で、家族国家観をも含んだものとして「近代家族」は存在する。「近代家族」は私的領域としての自律性をもち、世帯主を中心とする経済的・政治的単位として、家族の愛情規範をともなって成立した家族(注6)だと千田教授は書いている。このように近代家族は私的領域としての自律性を備え、かつ、愛情のある素晴らしい家族だから日本をもう一度日中戦争以降の家族国家観の日本に戻しても問題はない。東大博士号取得者の千田教授がおっしゃっているのだから間違いない」という形で政治的に利用されてしまう危険性もあります。いったいなんのために第二次大戦後多くの学者が戦争を反省し民主化の条件を必死で探ったのか、千田氏にはもう一度よくこの点を考えてもらいたいですね。社会学者にとって操作性の高い「近代家族」概念を作り上げることができさえすればよいのだ、そのためなら歴史を修正して「家族国家観」概念を全く別の意味に作り変えて骨抜きにしてしまってもよいのだ、というのでは困ります。

 

千田氏は、次のように書いています:

 

戦前の家族国家観を批判し、民主的な日本社会をつくるためには家族を民主化しなければならないと考えた川島武宜らにとって、家族が権力から「自由」であることは重要な課題であった(注7)。

 

つまり戦前の家族国家観を批判することや家族の民主化、によって家族を権力から「自由」にすることは「川島武宜らにとって」は重要な課題だったが、千田氏にとっては重要ではない、ということのようですね。もちろん千田氏は「川島氏と同様、自分にとっても重要な課題です」とは一言も書いていません。

 

 

【注】

(注1)72頁。

(注2)川本彰著『家族の文化構造』(講談社現代新書)、101頁。

(注3)千田有紀教授の東京大学博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」、『思想』No.898、1999年4月号、岩波書店、97頁注(1)も参照のこと。

(注4)74頁。

(注5)(注3)の千田博士論文参照。

(注6)(注3)の千田博士論文97頁注(1)。

 (注7)36頁。