読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

総合研究所

shinjiro7=ネット巡回型・問題点指摘ロボット。武蔵大学・千田有紀教授の論文不正(捏造)問題追及。著作権は当方に帰属しています。 すべてのページの無断転載を禁じます。(連絡先) ivishfk31@gmail.com

千田有紀著『日本型近代家族』を読む 5 「戸田貞三は家長的家族の成立条件や内実を詳しく示さなかった?」ってホント?

社会学 論文不正 捏造 戸田貞三 『日本型近代家族』 千田有紀 日本型近代家族

1 千田有紀氏はその著『日本型近代家族』において、東京帝国大学名誉教授・戸田貞三は「家長的家族の成立条件や内実を詳しく示さなかった」と書いています(130頁)。

 しかしこれはウソ(捏造)です。戸田は『家族構成』(1937年→1970年)の中で家長的家族について詳しく書いています。たとえば「近代的家族にあっても、家長的家族にあっても、夫婦が家族の重要なる成員であることに変わりはない」(戸田54頁)、「家長的家族にあっては子孫が重要なる者」(戸田63頁)、「家長的家族が、この家族の連続を致すべき地位にある男子に家族的伝統を維持すべき責任を負わせ、その男子が妻子を得た後においてもその親からの分離を許さない」(戸田94頁)、「妻または妻となるべき婦人」に要求される「特別の資格」(戸田95頁)、という記述は家長的家族の成立条件について書いた記述と言えます。家長的家族の内実についても、戸田は、「然らば何故に家長的家族はかくのごとき親子でない者の間に親子に似た関係を強いて設定せんとするのであるか」(戸田62頁)と書き家長的家族において養子関係を設定する理由について詳細に書いています。また戸田は、「家長的家族は・・・子孫たる家族員から家族員たる資格を奪う場合もある」(戸田63頁)と述べ、この場合について詳細に論じています。これ以外にも戸田は家長的家族についていろいろと書いています。

 

2 また千田氏は、

・戸田にとって「家」という言葉は戸籍上の観念でしかなく、研究対象は「家族」であった(127頁)。

 と書いています。

 しかしこの点もかなり怪しいです(戸田の研究対象が「家族」であったことは千田氏の言うとおりですが)。

 戸田は、「わが国には戸籍上の家なるものがあり、・・・この戸籍上の家なるものは単に帳簿上の族的集団であり、事実上の家族とはかなり縁遠いものである」と書いています(戸田122頁)。

 つまりここで戸田は「家」という概念を「戸籍上の家」に限定して考える、と言ってるのではなく、事実上の家族との違いを論じるうえで「戸籍上の家」に言及しているだけです。

 千田氏自身、「家」はわたしたちの日常語であり、実に多義的な言葉である、と書いている(70頁)ように、戸田は「家」が多義的で曖昧不明確な概念であるがゆえにあえて「家」という概念を用いずに、学術用語として「(家長的)家族」という概念を用いたと考えるのが素直ではないでしょうか? つまり戸田は「家」も研究したけれども「家」という多義的で曖昧不明確な概念は使わずにそれを「(家長的)家族」という概念で記述したのではないでしょうか?

 千田氏は、博士論文の中で、戦後日本の社会科学は戦争への反省から「民主化」への条件を探ろうとして「家」からの離脱を求めたが、しかしこのような日本への反省は「家」を遡及的に作り上げ、その問題設定の結果として、日本文化の「伝統」や「特殊性」を構築した、という結論を書いていますが、千田氏は「家」を遡及的に作り上げたのは戦後であって戦前ではない、という自分の結論に強引に話を持っていきたいために、戦前の戸田が「家」についてなにも論じていなかった、という方向に無理やりこじつけているのではないでしょうか?

 疑問が残ります。

 

 

 

 

 

千田有紀著『日本型近代家族』を読む 4  千田教授の「家族国家観」「近代家族概念」こそまさに「虚像(フィクション)」ではないのか?

捏造 社会学 論文不正 『日本型近代家族』 千田有紀 日本型近代家族

 千田有紀教授は、『日本型近代家族』の中で、日本の家族国家観はきわめて「近代的」な事象である、と述べた上で、その例として、フランス革命では国民は兄弟たちによる友愛であると表象されたことを挙げ、これは横の関係を強調するタイプの家族主義である、と書いています(注1)。

 しかし日本の家族国家観は皇室=国民の宗家,天皇=国民の父,国民=天皇の赤子という縦の関係(注2)ですから、横の関係のフランスでも家族国家観が存在したというのは理解できません。そもそも日本の家族国家観がフランス革命後のフランスでも存在したというためにはフランスにも天皇のような存在がなければおかしいのではないでしょうか。

 千田氏は博士論文でも、日本の家族国家観が欧米の「近代」にも存在することが明らかになった、と述べ、それを根拠に、かつては日本で不在であるとされていた「近代家族」が日本にも成立していた、と書いていました(注3)。

 そのため千田氏は本書でも、アメリカは、大統領が「国民の父」を自称し、ファーストレディである夫人と理想の家族を演出していること、歴代の大統領は自分を「国民の父」になぞってきたが、とくにそれが戦争時に顕著であったこと、を理由に、「天皇の赤子」という考え方がそれほど「特殊」ではないとして、アメリカにも日本の「家族国家観」が存在する、という趣旨のことを書いています。しかし、アメリカの大統領が自分を「国民の父」であると言って理想の家族を国民に向かって演出したくらいのことでアメリカにも日本の「家族国家観」が「明らか」に存在したことになるのでしょうか?

 どうも千田氏は日本の「家族国家観」の「家族」をニコニコ大調和家族のように考えているようですが、実際には違います。当時の国民(臣民)は天皇の赤子だと言っても、天皇の命令には絶対服従でした。国策に異論を唱えた国民は逮捕・処罰されました。

 たとえば日中戦争がはじまった1937(昭和12)年7月、浄土真宗大谷派の僧侶・竹中彰元は、「戦争は罪悪である」と説いて陸軍刑法違反で逮捕・処罰されました:

【リンク】NHK・ETV特集「戦争は罪悪である ~ある仏教者の名誉回復~」/竹中彰元(たけなかしょうげん) – @動画

これをみると千田氏の考えている「家族国家観」における、ニコニコ大調和みたいなイメージの「天皇の赤子」と歴史上の実際の「天皇の赤子」とはイメージが全く違いますね。千田氏の捏造ではないのでしょうか?

  千田氏は川島武宜らが第二次大戦後、戦争に対する反省から作り上げた民主的家族像を「虚像(フィクション)」にすぎない、と書いて批判しています(注4)が、千田氏の考える「家族国家観」や、それを包摂する「近代家族」概念こそ、まさに現実の歴史とは乖離した「虚像(フィクション)」ではないのでしょうか?

 千田氏は「近代家族」は、研究者によって操作的に作り上げられた分析概念である、と言っています(注5)が、そうであるからといって、歴史を捏造してもらっては困ります。「家族国家観」という概念は一定の歴史的意味を持っている(注6)わけですからそれを全く無視して別の意味の概念に作り変えて、それを「近代家族」概念に包摂して、歴史を捏造してもらっては困ります。

 

【注】

(注1)千田『日本型近代家族』72頁。

(注2)https://kotobank.jp の「家族国家観」参照。

(注3)東京大学博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」、『思想』No.898、1999年4月号、岩波書店、97頁注(1)。

(注4)千田66頁。

(注5)千田70頁。

(注6)たとえば「家族国家観」概念の持つ次のような特殊な歴史的意味:

「明治二十年代に確立された天皇制家族国家体制は、ファミリイを末端組織としてピラミッド型にあらゆる社会関係を規制し、そのヒエラルヒーの頂点に家族国家の家長である天皇をおくものであった。家族国家は絶対的価値を掌握し、他の独立する精神領域と秩序を許さない。かかる社会に生きるためには、とうぜんある種の鋳型にはまらねばならない。その鋳型とは、もちろん天皇制家族国家に適合する人間像である」

(川本彰著『家族の文化構造』(講談社現代新書)、101頁)

千田有紀著『日本型近代家族』を読む 3

『日本型近代家族』 千田有紀 日本型近代家族

1 千田有紀氏は『日本型近代家族』24-25頁、「(7)ロマンティックラブと異性愛規範」の項目で、19世紀のアメリカでは女同士の愛情は、「ロマンティックな友情」として広く認められていた、と書いています。しかしアメリカはキリスト教の影響の強い国なのに、本当にこのような女同士のロマンティックな友情」が広く認められていたのでしょうか?千田氏はキリスト教から発生する異性愛規範については全く記述していませんが、なぜでしょうか?

 また千田氏は、20世紀に入ってから、男女のカップルだけが「正常」とされる異性愛規範が「(19世紀末からの)性科学の発達」によって発生した、との趣旨を書いています。

 しかしそうするとアメリカでは20世紀になるまでキリスト教異性愛規範は全く存在しなかったのでしょうか?またアメリカでは20世紀に入ってから突如、異性愛規範が、キリスト教とは全く無関係に、「性科学の発達」だけが原因で発生したのでしょうか?疑問が残ります。学術の水準に耐えうる記述になっていません。

 

 

千田有紀著『日本型近代家族』を読む2 「家族国家観」「近代家族」

社会学 論文不正 『日本型近代家族』 千田有紀 日本型近代家族

「家族国家観」「近代家族」について考えてみましょう。武蔵大学千田有紀教授は『日本型近代家族』(勁草書房、2011年)の中で次のように書いています:

 

 日本の特殊性であると長い間考えられてきた家族国家観ー「国民は天皇の赤子である」などという、第二次世界大戦に日本を導いた「非合理的」で「ファナティック」な思想ーは、「近代家族」という視点からみれば、けっして日本に特殊なものではない。むしろ家族国家観は、きわめて「近代的」な事象なのである。
 例えばフランス革命では、父である王による支配である王制を倒し、国民は兄弟たちによる友愛であると表象された(Hunt 1992=999)。ここでは家父長制が否定すべき敵として表象されている。これは家族の縦の関係を否定し、横の関係を強調するタイプの家族主義である。(注1)【引用終わり】

 

千田氏が、家族国家観はきわめて「近代的」な事象なのである、と言う場合の「家族国家観」からは、たとえば次のような、家族国家観の持つ特殊な歴史的意味が捨象されてしまっています:

 

「明治二十年代に確立された天皇制家族国家体制は、ファミリイを末端組織としてピラミッド型にあらゆる社会関係を規制し、そのヒエラルヒーの頂点に家族国家の家長である天皇をおくものであった。家族国家は絶対的価値を掌握し、他の独立する精神領域と秩序を許さない。かかる社会に生きるためには、とうぜんある種の鋳型にはまらねばならない。その鋳型とは、もちろん天皇制家族国家に適合する人間像である」(注2)

 

このような家族国家観の持つ特殊な歴史的意味を捨象した上で、千田氏は、フランス革命後のフランスにも「家族国家観」は存在したのである、と言い、家族国家観は、きわめて「近代的」な事象なのである、と言っているわけです。つまり千田氏の言う「家族国家観」は「家族国家観」概念が本来有していた上記のような特殊な歴史的意味を捨象した残滓(=残りカス)の概念なのです。千田氏は、この残滓の概念としての「家族国家観」概念が欧米の近代にも存在する、と言い、そしてこの残滓の概念としての「家族国家観」概念を含む概念として「近代家族」概念を考える、というのです。この考え方によると日本にも欧米にも「家族国家観」が存在したと言うことができます。すると欧米の「近代」にも日本の「家族国家観」が存在したと言えるから、日本には不在であるとされていた「近代家族」が日本にも存在する、と言うことができます(注3)ので、社会学者としてはこの「近代家族」概念は使い勝手(操作性)がよくなるわけです。したがって千田氏は「近代家族」は、研究者によって操作的に作り上げられた分析概念である、と書いています(70頁)。

しかし考えてみれば千田氏は「家族国家観」の本来持っていた上記の特殊な歴史的意味を社会学者にとって操作性のよい「近代家族」概念作りのために捨象してしまっているわけですから、歴史修正主義と言ってもよいでしょう。千田氏の考え方ではいったいなんのために第二次大戦後多くの学者が戦争を反省し民主化の条件を必死で探ったのか、その努力や趣旨を没却してしまいます。

千田氏はフランスの例以外にも、アメリカは、大統領が「国民の父」を自称し、ファースト・レディである夫人と理想の家族を演出していた、そして特にそれが戦争時に顕著であった、との理由で日本の「家族国家観」が特殊なものではなくアメリカにも存在していた、との趣旨を書いています(注4)。無茶苦茶な論理です。

 

安倍総理戦後レジームからの脱却」を主張しています。私は戦後レジームからの脱却」を主張しているのは、安倍総理だけかと思っていましたが、千田氏の主張、つまり、川島武宜をはじめ多くの学者が戦後、戦争を反省して民主化を真剣に考えたのがかえって「家」概念を析出してしまい良くなかったとか(注5)、日本の家族国家観は欧米の近代にも見られる現象で、日本だけが特殊じゃない、という主張も社会科学界の「戦後レジームからの脱却」を目指した主張であると思います。しかし千田氏が戦後、戦争への反省の中から生まれた「家族国家観」という概念から、上記の川本の説明のような「家族国家観」の持つ国家による人権侵害的側面を除去し、全く別の意味の概念として「家族国家観」を作り変えてしまう点は歴史修正主義であり、問題です。また川本的な意味での本来の「家族国家観」を全く骨抜きにして、千田氏のように日本にも欧米にも「家族国家観」は存在した、家族国家観はきわめて近代的な事象である、ということを主張してしまうと、日本を再び軍国主義の時代に戻したい為政者(が仮にいたとしてその為政者)から「千田教授によると、日本にも欧米にも家族国家観は存在していて、家族国家観は日本だけの特殊な事象ではなく欧米にも存在する近代的事象で、家族国家観をも含んだものとして「近代家族」は存在する。「近代家族」は私的領域としての自律性をもち、世帯主を中心とする経済的・政治的単位として、家族の愛情規範をともなって成立した家族(注6)だと千田教授は書いている。このように近代家族は私的領域としての自律性を備え、かつ、愛情のある素晴らしい家族だから日本をもう一度日中戦争以降の家族国家観の日本に戻しても問題はない。東大博士号取得者の千田教授がおっしゃっているのだから間違いない」という形で政治的に利用されてしまう危険性もあります。いったいなんのために第二次大戦後多くの学者が戦争を反省し民主化の条件を必死で探ったのか、千田氏にはもう一度よくこの点を考えてもらいたいですね。社会学者にとって操作性の高い「近代家族」概念を作り上げることができさえすればよいのだ、そのためなら歴史を修正して「家族国家観」概念を全く別の意味に作り変えて骨抜きにしてしまってもよいのだ、というのでは困ります。

 

千田氏は、次のように書いています:

 

戦前の家族国家観を批判し、民主的な日本社会をつくるためには家族を民主化しなければならないと考えた川島武宜らにとって、家族が権力から「自由」であることは重要な課題であった(注7)。

 

つまり戦前の家族国家観を批判することや家族の民主化、によって家族を権力から「自由」にすることは「川島武宜らにとって」は重要な課題だったが、千田氏にとっては重要ではない、ということのようですね。もちろん千田氏は「川島氏と同様、自分にとっても重要な課題です」とは一言も書いていません。

 

 

【注】

(注1)72頁。

(注2)川本彰著『家族の文化構造』(講談社現代新書)、101頁。

(注3)千田有紀教授の東京大学博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」、『思想』No.898、1999年4月号、岩波書店、97頁注(1)も参照のこと。

(注4)74頁。

(注5)(注3)の千田博士論文参照。

(注6)(注3)の千田博士論文97頁注(1)。

 (注7)36頁。

千田有紀著『日本型近代家族』を読む1 「日本型捏造学者」

社会学 論文不正 戸田貞三 『日本型近代家族』 千田有紀 日本型近代家族

 武蔵大学教授・千田有紀氏はその著『日本型近代家族』(勁草書房、2011年)の中で東京帝国大学名誉教授・戸田貞三(故人)が家族の特質をどのようにとらえたのか、次の六点にまとめて検討しよう、と述べ、戸田の著書『家族構成』(1937年)から引用し次のように書いています:

 

一 家族は夫婦、親子およびそれらの近親者よりなる集団である。
二 家族はこれらの成員の感情的融合にもとづく共同社会である。
三 家族的共同をなす人々の間には自然的に存する従属関係がある。
四 家族はその成員の精神的ならびに物質的要求に応じてそれらの人々の生活の安定を保障し経済的には共産関係をなしている。
五 家族は種族保存の機能を実現する人的結合である。
六 家族は此世の子孫が彼世の祖先と融合することにおいて成立する宗教的共同社会である。(戸田)1937-1970:37)
戸田によれば、欧米の「近代的家族」は、一から四の条件を満たすものであり、日本の「家長的家族」は、一から六の条件を満たすものである(注1)。【引用終わり】

 

 

 千田氏はこのように書いていますが、戸田は、本当に日本の家長的家族は一から六の条件を満たすものである、と書いているのでしょうか。

 千田氏の引用にかかる上記「一」から「六」は戸田が「家族の集団的性質」に関する諸学者の所説を要約したものです。戸田は諸学者の所説を「一」から「六」までに要約したうえで、これらを批判的に検討しながら自説を展開しています。

 戸田は『家族構成』の中で次のように書いています:

 

・・・しかしながら第一に子供の出生は親となるべき男女の生理的条件に支配されること多く、夫婦の性的共同が行われるとしても出生は必ずしも期待し得られぬ。それは人為以外の自然的作用に侯つところが多い。それ故にかかる自然的生物的作用を以て人為的に構成される家族の重要機能と観ることは出来ぬ。次にまたかりに出生によって子供を得ることが出来るとしても、子供を扶育する親は自己の種族保存のため、または家系の継承のためというがごとき功利的の要求のみを主としているのではない家長的家族にはかくのごとき態度を持って子供を養育する場合ありとしても、近代的家族には、このような功利的意味を持って子を育てるものはない。育児は近代的家族においても一般に行われているが、それは他の目的要求にもとづくものでなく、子に対する限りなき愛情のあらわれである。また家長的家族においても血統の連続、家系の存続というがごとき要求にのみ従がって子供が養育せられているのではなく、家系の維持に直接関係あると否とを問わず(たとえば他家へ嫁すべき運命を持つ女子のごとき)、育児のためには多大なる犠牲が払われている。かくのごとき犠牲は親が子に対して持つ愛情を別にしては起り得ない。このように考えてみれば、子供の扶育は多くの家族において行われる日常生活の一面であるが、それは血統の維持、種族の保存、または家系の存続というがごとき目的遂行の手段としてのみ行われているのではなく、主として親の愛情の具体的発現である。それは結果を予想した目的的行為というよりは、はるかに強く人間自身に対する愛情に基礎を置いたものと云い得る。したがって育児は家族における感情融合の一つのあらわれであるが、しかしその故に家族は種族保存または血統維持の機能実現のためにできた機関であるとは云われない(注2)【引用終わり】

 

 以上のように戸田は、家長的家族においても、子供を扶育する親は自己の種族保存のため、または家系の継承のためというがごとき功利的態度を持って子供を養育する場合もある、とは述べつつも、結論としては、家族は種族保存または血統維持の機能実現のためにできた機関であるとは云われない、と書いています。つまり戸田は日本の「家長的家族」が上記「五」の条件を満たすものである、とは書いていません。「五」の条件を満たさなくても「家長的家族」たりうるのです。

 したがって千田氏の上記記述は捏造です。

 また、上記の「六 家族は此世の子孫が彼世の祖先と融合することにおいて成立する宗教的共同社会である。」の条件についても戸田は「家長的家族にあっても祖先と子孫の融合という宗教的共同が家族の基本になっているのではない」「たとい家長的家族にあってもこの宗教的共同が家族にその存立の基礎を与えているのではない」(注3)と述べています。したがって戸田は家長的家族は上記条件「六」を満たすものである、とは書いていません。戸田は条件「六」を家長的家族の条件として考えていません。

 したがって家長的家族は上記条件「六」を満たすものである、と書いている千田氏の上記記述も捏造です。

 「死人に口なし」を巧妙に利用し家族社会学を捏造する千田氏は「日本型捏造学者」と呼んでよいでしょう。

 ちなみにこの『日本型近代家族』は千田氏が武蔵大学から研究出版助成金をもらって書いたそうです(注4)。教授に助成金を渡して捏造論文を書かれたら、大学はたまったものではないですね。

 

(注1)千田『日本型近代家族』(勁草書房、2011年)127-128頁。

(注2)戸田貞三『家族構成』(1937年)44頁。

(注3)戸田貞三『家族構成』(1937年)45頁。

(注4)千田185頁。

武蔵大学・千田有紀教授の博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」を読む 7

論文不正 社会学 上野千鶴子 千田有紀 博士論文 千田有紀博士論文

千田有紀教授は博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」の注釈(1)(97頁)で次のように書いています:

 

従来、「前近代性」「日本特殊性」と考えられてきた家族国家観や性別役割分業は、欧米の「近代」にも存在することが明らかになった。このような「近代家族」―私的領域としての自律性をもち、世帯主を中心とする経済的・政治的単位として、家族の愛情規範をともなって成立した家族―を考えれば、かつては日本には不在であるとされていた「近代家族」が、日本にも成立していたともいえる。つまり、「欧米近代」そのものと、「日本の近代」の再検討が必要とされる。【引用終わり】

 

上記記述は以下の命題を含んでいます。

【命題1】日本の家族国家観は「前近代性」と考えられてきた。

【命題2】日本の家族国家観は欧米の「近代」にも存在することが明らかになった。

【命題3】日本の家族国家観が存在する欧米の「近代」における「近代家族」は、私的領域としての自律性をもち、世帯主を中心とする経済的・政治的単位として、家族の愛情規範をともなって成立した家族である。

【命題4】命題3の意味での「近代家族」を前提に考えれば日本にも「近代家族」が成立していたといえる。

 

以下、それぞれについて検討してみましょう。

【命題1】について。

そもそも「家族国家観」は明治政府が作った国家観です。

コトバンク(注1)に依ると、明治末期には,皇室=国民の宗家,天皇=国民の父,国民=天皇の赤子という家族国家観が成立した、と書かれています。従って「家族国家観」ができたのは近代です。ところが千田氏は、この部分を、「「前近代性」・・・と考えられてきた家族国家観・・・は、」と書いているので、意味が解りにくいですが、ここは、近代に明治政府によって作られた「家族国家観」が、「前近代性」を有する(引き継いでいる)、と千田氏は言いたいようです。

 

【命題2】について。

本当に日本の家族国家観は欧米の「近代」にも存在したのでしょうか?例えば市民革命後のフランスにも天皇のような人が存在して、「家族国家観」を構築していたのでしょうか?あるいは独立革命後のアメリカにも天皇のような人が存在して、「家族国家観」を構築していたのでしょうか?私はそのような話は初めて聞きました。

千田氏は、家族国家観は欧米の「近代」にも存在することが「明らかになった」、と書いていますが、この点に関する出典や根拠をなんら明示していません。千田氏の捏造ではないのでしょうか?

 

【命題3】【命題4】について。

 【命題3】について見てみましょう。川本彰著『家族の文化構造』(講談社現代新書)によれば家族国家観について次のように説明しています:

「明治二十年代に確立された天皇制家族国家体制は、ファミリイを末端組織としてピラミッド型にあらゆる社会関係を規制し、そのヒエラルヒーの頂点に家族国家の家長である天皇をおくものであった。家族国家は絶対的価値を掌握し、他の独立する精神領域と秩序を許さない。かかる社会に生きるためには、とうぜんある種の鋳型にはまらねばならない。その鋳型とは、もちろん天皇制家族国家に適合する人間像である」(同書101頁)。

 この川本氏の家族国家観の説明と、千田氏が書いている、【命題3】の欧米の「近代」における「近代家族」の定義、とは内容が違っているのではないでしょうか?すなわち川本は「家族国家は絶対的価値を掌握し、他の独立する精神領域と秩序を許さない。と書いているのに対して、千田氏の【命題3】の欧米の「近代」における「近代家族」の定義では、その中に日本の家族国家観が「存在することが明らか」なはずなのに家族は私的領域としての自律性を持つ、と書いています。川本の説明と千田氏の説明は、内容的に相違しているのではないでしょうか?千田氏は社会科学者として自分の定義と川本の説明との相違点を論理整合的に説明する必要があるのではないでしょうか?

 そもそも【命題3】【命題4】が社会科学的に正しいと言えるためには、【命題2】の社会科学的正しさが前提になりますが、千田氏が【命題2】の社会科学的根拠を明示していない以上、【命題3】【命題4】は真偽不明、と言わざるをえません。

  結論的に、上記千田氏の記述は、学術の水準に耐えられる記述になっていません。

 ちなみに千田氏の博士論文の審査委員の主査は上野千鶴子です(注2)。

 千田氏は大学院時代にお世話になった師匠の上野について「『とくべつに指導はしない』と公言されている先生のもとで、本当に自由にやらせてもらいました。」と書いています(注3)。だから上で見たような歴史の捏造も「本当に自由に」やらせてもらえた、ということでしょうか。

ちなみにすでに当ブログ過去記事で述べましたように上野千鶴子は女性の研究者への就職に関して「あからさまな男性逆差別」システムを採用していました(注4)。もはやなんでもあり、ですね。

 

【注】

(注1)https://kotobank.jp/

 (注2)学位論文要旨詳細

 (注3)千田有紀著『女性学/男性学』(岩波書店、2009年)、169頁。

(注4)

f:id:shinjiro7:20170226213647p:plain

 

 

 

武蔵大学・千田有紀教授の博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」を読む 6

社会学 論文不正 戸田貞三 福武直 千田有紀 博士論文 千田有紀博士論文

 

1 武蔵大学千田有紀教授は、東京大学博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」の中で戦前の戸田貞三の家族論について書いています(注1)。

 

2 すなわち千田氏は100頁、注31において、戦前の戸田の家族論では、性と年齢に基づいた従属関係が導き出されている、と述べた上で、ただしここでの従属は、「愛情や信頼にもとづいて、各人の自発性から服従する性質のものである」と書いています。私が戸田『家族構成』を読んだ限りでは戸田本人が「愛情や信頼にもとづいて、各人の自発性から服従する性質のものである」と書いた記述は発見できませんでしたが、千田氏個人が行った戸田『家族構成』の解釈によればこのように解釈される、ということのようです(千田氏が何を根拠にこのように書いたのかは不明です)。

 

ところが戸田貞三著『家族の研究』(大正15年、弘文堂書房)(注2)には次のように書かれています(旧仮名遣いは一部、新仮名遣いに改めました):

 

 【戸田・引用1】

◎・・・我が国にはこのように旧家を尊び、家系を尊重する風があるが、この家系の尊重とは如何なる事であるか、このように尊重せらるる家系とは如何なるものであるか。それは家族なる団体精神の連続である。家族集団に特有なる団体精神が、成員たる家族員に新陳代謝あるにもかかわらず、常に家族に固有の精神として存続する事である。すなわち家系とは家族精神の連続的存立にほかならない(同書250-251頁)。

 

◎我が国民はこの家族精神の永続性を尊重し、その連続を助長するために、家族員相互の関係、及び家族員と他の者との関係に、特有なる形式を定めている(同書255頁)。

 

◎妻とか、子女とか、養子等は、家族団体を永続せしむるために、それぞれ相応の働きをなす事を家族団体から要求せられている・・・(同書264頁)。

【戸田・引用1、終わり】

 

 

 この戸田の記述を読む限り、「家族」には、「旧家を尊び、家系を尊重する風」が存在し、家系とは「家族精神の連続的存立」を意味し、成員は、家族団体を永続せしむるために、それぞれ相応の働きをなす事を家族団体から要求されています。戸田はまた、我が国民はこの家族精神の永続性を尊重し、その連続を助長するために、家族員相互の関係、及び家族員と他の者との関係に、特有なる形式を定めている、とも書いています。

 すると戦前の家族は、「家族集団に特有なる団体精神」に支配され、家族精神の永続性を尊重して行動するよう「家族団体から要求」されていたからその要求通りに動いていたのであって、千田氏の言うように「愛情や信頼」にもとづいて、「各人の自発性から服従」していたとは言えないのではないでしょうか?戸田の書いている内容と、千田氏が本論文100頁注31で書いている内容とは違うように思います。千田氏のこの記述は論文不正(捏造)ではないのでしょうか?

 

3 また千田氏は戦後初期の福武直の「封建遺制」論について触れ、次のように述べています:

 

・「家」が「封建遺制」であるというこの問題設定(=筆者注:福武の問題設定のこと)は、意外なことに家族社会学においては新しいものである(81頁)。

・戦前「家」は「封建遺制」とはみなされていなかった(81頁)

・戦後になって、社会学理論内で、「封建遺制」「前近代性」としての「家」が、ひとまとまりの概念として構築されてきた(86頁)

・「家」が「封建遺制」であるという問題設定は、きわめて戦後的である(99頁注17)。

 

 しかし、上記のように、戸田はすでに戦前に著書で家の封建的側面を書いているわけですから、この千田氏の論の運び方は強引ではないでしょうか?「遺制」という日本語は岩波書店の『広辞苑』(第5版)を見ますと「昔の制度で今に遺っているもの」とあります。戸田は戦後ではなく、戦前に、戦前の、家の封建的側面を書いたから「遺制」とは書かなかっただけではないのでしょうか。千田氏は「戦前の社会学の家族論では「家」が武士的・儒教的家族制度として意識されることはなかった」(87頁)と書いていますが、上記の戸田の記述は「家」の武士的・儒教的側面を意識して書いています。

 千田氏は、戦後、日本社会や家族の前近代性が「家」に集約されることで、戦前と戦後の家族論の間に、はっきりとした理論的断絶が起こった、と書いています(81頁)。また千田氏は戦後日本の社会科学は戦争への反省から「民主化」の条件を探ろうとしてかえって「家」を遡及的に作り上げた、とも書いています(97頁)。千田氏はこれらのことを書きたいがために、戸田の、戦前の家の封建的側面についての上記記述を意図的に無視し、かつ、戦後の福武の「封建遺制」論を「新しい」と言ってその新しさを強調することによって強引にストーリーをでっち上げているのではないでしょうか?私にはそのように思えます。みなさんはどのようにお考えでしょうか?

 

【注】

(注1)『思想』No.898、1999年4月号、岩波書店、84頁以降参照。

(注2)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018689

 

 

武蔵大学・千田有紀教授の博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」を読む 5

社会学 論文不正 千田有紀 博士論文 千田有紀博士論文

 武蔵大学千田有紀教授の東京大学博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」の中で千田教授は次のように書いています:

 

日本の直系家族規範と欧米の核家族規範の比較研究の根底には、家族形態に関する理念によって、その社会の文化が分かるという文化とパーソナリティ学派のようなアメリカ文化人類学的な関心が潜んでいたように思えてならないが、この家族還元論自体が再考を要されることだろう。

(『思想』No.898、1999年4月号、岩波書店、96頁)

 

 千田氏が「日本の直系家族規範と欧米の核家族規範の比較研究の根底には、家族形態に関する理念によって、その社会の文化が分かるという文化とパーソナリティ学派のようなアメリカ文化人類学的な関心が潜んでいたように思えてならない」と考える社会科学的根拠はどこにあるのでしょうか?なぜ「思えてならない」のでしょうか?社会科学的根拠のない単なる個人的思い付きを博士論文で書いてよいのでしょうか?またこのような社会科学的根拠がない、個人の勝手な思い付きを根拠に、なぜ「この家族還元論自体が再考を要される」ことになるのでしょうか?学術の水準に耐えうる記述になっていません。自分が問題提起したら、その問題に食らいついて社会科学的根拠を詰めて最後まで論じきるのが博士論文ではないのでしょうか?千田氏は文字数やページ数を水増しするためだけに他人の著書・論文から切り貼りし、思い付きを書いているとしか思えません。千田氏の行為は論文不正ではないのでしょうか?

 

 

武蔵大学・千田有紀教授の博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」を読む 4

社会学 論文不正 千田有紀 博士論文 千田有紀博士論文

 武蔵大学千田有紀教授の博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」(注1)の中で気になる点を列挙していきます。

 

 千田氏は98頁注12で「民法改正による家族の民主化は・・・『近代家族』の完成をめざしていたといえるだろう」と書いていますが、本論文では「近代家族」の意味内容や定義自体が一義的に明らかにされていません。「近代家族」の概念自体、学者によって、論者によって、さまざまな見解があるのです。このことは本論文に紹介されている「近代家族」に関するさまざまな学者の見解からも明らかです。また76頁では千田氏自身が「『家』という概念には、『日本の近代』をどう捉えるのか、という問題が潜んでいる」と問題提起をしているように、そもそも「日本の近代」という概念自体、どう捉えるか一義的に明らかでないのです。すると、「日本の近代」の概念の定義も意味内容も、「近代家族」の概念の定義も意味内容も不明確なままで、なぜ「民法改正による家族の民主化は・・・『近代家族』の完成をめざしていた」と言えるのでしょうか?社会科学的論証になっていないと思います。

 

 また90頁で千田氏は森岡清美氏の理論を批判して「『現代』が欧米の『近代』とは全く異なると考えられることによって、『日本の近代』や日本の『近代家族』が何であるのかは、問われなかったのではないだろうか。」と述べていますが、そのように森岡を批判する千田氏自身、「日本の近代」や日本の「近代家族」が何であるのかについて本論文で明確には考察されていないように私には思えます。自分が明確にできていない概念を、他人だけ批判するというのはフェアではありません。

 

 97頁、本論文の結論部分では「『日本』という『想像の共同体』」という表現が唐突に出てきます。「想像の共同体」などという、社会科学的な定義も意味内容も全く明らかでない概念を唐突に持ち出してきて、「日本は想像の共同体である」という、社会科学的に何ら証明のなされていない命題を書いて論文を締めくくるのは博士論文としていかがなものでしょうか。論文不正(捏造)ではないのでしょうか?もしこれが特定の社会学者の概念であるのならその旨注釈で明記すべきですし、特定の社会学者の概念であるにもかかわらず注釈をつけずに書いたのならそれは論文不正(盗用)です

 

 千田氏は80頁で「民法を検討すれば、単語のレベルでの民主化に、過剰な意味が与えられすぎてきたのではないかという疑問がわいてくる」と書いたうえで、注12において「明治民法は今日考えられている以上に、個人主義的な法制度であった」と結論していますが、この部分は私のように法律学を学んだ人間としては非常に気持ちの悪い、違和感のある記述です。新民法のもとでの民主化は単に、「単語のレベルでの民主化」にすぎなかったのでしょうか?憲法をみると、明治憲法日本国憲法とで、憲法そのものに大きな変化があって、学説では「八月革命説」という有力な見解まであるのに、憲法の下位規範である新民法のもとでの民主化は単に、「単語のレベルでの民主化」にすぎなかったのでしょうか?そもそも「単語のレベルでの民主化」とは社会科学的にどのような事態を意味するのでしょうか?疑問がわいてきます。

 97頁では千田氏が本論文の結論を述べていて、それによると戦後日本の社会科学は戦争への反省を行ったから、それがかえって「家」を遡及的に作り上げ、日本の「伝統」や「特殊性」を構築し、再び「日本」という「想像の共同体」の再構成してしまった、との趣旨を述べています。つまり千田氏にとっては戦後日本の社会科学が戦争への反省を行って「想像の共同体」の再構成をもたらしてしまったことが、女性の解放を妨げたので、非常に迷惑で困ったことだと千田氏は考えているのです。この結論が先にあって、この結論に合わせるために千田氏は戦後の民主化の過程を無理やり「単語のレベルでの民主化」と矮小化してしまっているように思います。千田氏が言いたいことは、要するに、戦後の学者が戦争への反省だ、民主化民主化、と言って大騒ぎしたから「想像の共同体」の再構成をもたらしてしまったんだ、そのおかげで女性は解放されずにいまなお大迷惑しているのだ、先人はよくも戦争の反省などという、とんでもないことをしてくれたものだ、と言いたいのでしょう。それを言うために、戦後の民主化をたかが「単語のレベルでの民主化」に過ぎない、と無理やりこじつけて言っているのです。先人が大変な努力を払って行った戦争への反省、戦後の民主化を、自分の導きたい結論に合わせるために、社会科学的根拠もないのに「単語のレベルでの民主化」に過ぎない、と言って無理やり矮小化してしまう(注2)(注3)ことは、論文不正(捏造)だと私は思います。みなさんはどのように思われますか?

  

 【注】

 (注1)『思想』No.898、1999年4月号、岩波書店

 (注2)この点、千田氏は次のように書いています。この発想なら論文不正も簡単にできてしまいますね:

・科学は決して「客観的な事実」を伝えるのではないということが、わかってもらえるかと思います。そもそも「客観的な事実」の存在自体も、怪しいものです。導き出される「結論」は、必ずその解こうとした「問題」の答えであり、その「問題」を設定するのは「人間」だからです。

 

千田有紀著『女性学/男性学岩波書店、25頁)

 

・どんなものの見方もかならずそれをみる眼差しによって規定されているのですから、そもそも「中立」や「客観性」というものが存在しません。

 

千田有紀著『女性学/男性学岩波書店、81頁)

 

(注3)千田氏が80頁で述べている「戦後民法と明治民法の連続性」という命題も、千田氏が「単語のレベルでの民主化」という主張を補強もしくは相互補完するために主張している。しかし千田氏の行った「戦後民法と明治民法の連続性」の論証の社会科学的方法の問題点についてはすでに当ブログ過去記事で指摘したとおりです。

 

 

武蔵大学・千田有紀教授の博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」を読む 3

論文不正 上野千鶴子 社会学 千田有紀 博士論文 千田有紀博士論文

 武蔵大学千田有紀教授の東京大学博士論文「『家』のメタ社会学:家族社会学における『日本近代』の構築」の中で千田教授は次のように書いています:

 

 

◎結論的にいうなら日本の家族社会学において「家」という概念が、欧米の「家族」という概念の対比の中で練り上げられていったこと、そしてこのような問題設定の原点は戦後にあり、「「家」から「家族」 へ」という変動論を前提とすることによって、一九六〇年代以降は、「家」が理論的に「特殊」なものとして捉えられ、日本の文化の「伝統」といった概念が必要とされるようになったことが明らかになった(注1)。

 

◎以上、「家」パラダイムの成立とその理論的な帰結を検討してきた。この「家」パラダイムは、戦後日本の社会科学は戦争への反省から「民主化」の条件を探ろうとして「家」からの離脱を求めたものであった。しかしながら、このような日本への反省は、日本文化の説明変数としての「家」を遡及的に作り上げ、その問題設定の結果として、日本文化の「伝統」や「特殊性」を構築し、再び「日本」という「想像の共同体」の再構成に貢献してしまうという逆説を起こしてしまったのではないだろうか(注2)。【引用終わり】

 

 

 千田氏によると、戦後日本の社会科学は戦争への反省から「民主化」の条件を探ろうとして「家」からの離脱を求めた。ところがこのような日本への反省は、日本文化の説明変数としての「家」を遡及的に作り上げ、日本文化の「伝統」や「特殊性」を構築し、再び「日本」という「想像の共同体」の再構成に貢献してしまうという逆説を起こした、ということです。千田氏は「のではないだろうか」と疑問を付して終わっていますが本当はまさにこの点をこそ博士論文で徹底的に研究して論じて欲しかったところです。本論文は大半が他の学者の論文からの抜き書き、切り貼り、見解紹介、になってしまっていて、千田氏のオリジナルの部分がほとんどないのが残念です。これでも東大博士号がもらえるのですね。

 それはともかく、千田氏によると戦後日本の社会科学が戦争への反省から「民主化」の条件を探ろうとして「家」からの離脱を求めたことがかえって「日本」という「想像の共同体」の再構成をもたらしてしまった、ということなので、戦争の反省は一切しないほうが日本という「想像の共同体」が崩壊してむしろよい国になる、戦後、民主化を求めて戦争の反省などという余計なことをしたからこんな悲惨な「想像の共同体」が再構成されてしまったのだ、ということです(注3)。しかしこのような結論でよいのでしょうか?私は東大の博士論文というものは人類の知的遺産たるにふさわしい内容の論文かと思っておりましたが、今回、見事に期待が裏切られました。

 多くの社会科学者が一生懸命研究して、戦争の反省をする内容の論文を書かないほうが日本という「想像の共同体」が崩壊してむしろよい結果がもたらされるのだ、というようなことを千田氏のような有名大学教授が東大の博士論文で書いているのですから、安倍政権が文科系を廃止する政策を打ち出してきたり、文科系の学術予算を削減する政策を打ち出すのは当然といえるかもしれません。安倍政権は「非立憲」だとか「反知性」だとか「クーデター」だとかいろいろ批判されますが、実際は、千田氏のような東大博士号取得者の研究成果や政策提言を忠実に取り入れて政策を実現しているのかもしれません。みなさんはどのようにお考えでしょうか?

 

 【注】

(注1)

『思想』No.898、1999年4月号、岩波書店、94頁。

(注2)

『思想』No.898、1999年4月号、岩波書店、97頁。

(注3)

千田氏のお師匠の上野千鶴子の著書『家父長制と資本制』はPARTⅠ「理論編」で「フェミニズムの主要な敵は男性」と結論が書かれており、それを前提に、PARTⅡ「分析編」では、女性の敵である男性を駆除して女性を解放するための最も効果的な手段の具体例として「戦争」が挙げられている。つまりPARTⅠとPARTⅡは同じコンテクストで話が繋がっている。本文で述べた千田氏にしても、師匠の上野千鶴子にしても、戦争を肯定的に捉えるところがこの上野千鶴子学派の特徴です。上野学派においては、女性を抑圧する日本という「想像の共同体」を破壊してくれて男性を死滅させて女性を解放してくれる最大の効果を発揮する社会的事象として戦争があるのです。千田氏の博士論文を平たく言えば、要するに、戦後、多くの学者が必死こいて戦争の反省なんか余計なことしやがったせいで女性を抑圧する日本という「想像の共同体」を再構成させてしまいやがって、おかげで女性が解放されなかったじゃないかこのバカヤロウ、という話なのでしょう。